聖書協会共同訳

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かなり不自然な位置にカンマがあります。「私たちが御前で、愛のうちに、聖にして傷のない者となるためです。」としたほうがよいでしょう。  この文には神学的な問題点もあります。「世の基が置かれる前」という表現が「天地創造の前」となっているところです。ここでの論点ではありませんので、これについては指摘のみにとどめたいと思います。. 聖書には、「集う人々」を意味し、後の時代に「教会」を意味するようになった語があります。現代の聖書の大半はこの語に「教会」という訳語を充てているため、多くの聖句で文意が変わってしまうという問題があります。  最初の「造り上げる」は、おおかた「励ます」の意味です。文脈でパウロが指摘するとおり、異言を語る人は自分の語る言葉の意味を理解できません。つまり、自分に聖霊の奇跡が起こっていることを自覚することしかできませんので、その人の中で何かが成長するということにはなりません。一方、後半部分の「造り上げる」は「教えられて成長する」の意味です。そこでパウロは、異言よりも預言のほうがよいと結論するわけです。  仮にもパウロは、教会が建てられることや、設立されることについて述べているのではありません。「異言を語る者はその人だけを強くしますが、預言を行う者は教会の全員を強くします。」などとするなら、原文の文意を正しく示すことができます。また、コリント第一 の「誰も聞いていないのに」は「誰も聞き取れないのに」か「誰も理解できないのに」としたほうがよいでしょう。.

これは、先に述べたローマ のところです。ここでは「信仰」を「真実」と訳すことが許容されると思いますが、本来「真実」と訳される語と訳語が被っているという問題があると思います。「信実」を採用していればこのような問題は回避できました。読者が「真実」という語を読んだとき、「信仰」由来の「真実」なのか、そうでない「真実」なのか、区別がつかないというのは深刻な問題だと思います。ここには4回「真実」が出てきますが、普通の真実は1回、信仰の言い換えは3回です。あなたにはわかるでしょうか?  ローマのクリスチャンへの手紙を読んでいると、パウロの台詞も文体が二段構えであることに気づかされます。福音書の場合と同様、わざと意図してやっているみたいですが、これがなかなか不自然で、福音書の場合と同様、なにかと破綻気味です。ほかにローマ ,, などがあります。  聖書協会共同訳聖書では、詩の部分はカンマを省いて改行を入れるという方針が採られています。そのようなわけで、「正しいとされ」のあとにカンマはありません。引用の際の不便を無視したものだと思います。日本聖書協会は、カンマは省いた方が日本語として美しくなると説明していますが、私には理解できません。カンマに関しては、聖書協会共同訳聖書は迷走状態だと思います。  聖書からの詩の引用については、1.

ルカ福音書の冒頭でこの文というのは、私としてはなかなかインパクトが強かったです。  この文には主語が二つあるように見えるという問題があります。「御言葉に仕える者となった人々が」と「多くの人が」です。問題の原因となっているのは「御言葉に仕える者となった人々が」の後にカンマが入っていることです。カンマがなければそれなりに文意が成立しますが、それでもややこしいと思います。ここは、「私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃し、御言葉に仕える者となった人々から、私たちに伝えられたとおりのことを物語にまとめようと、多くの人がすでに手をつけてまいりました。」とすればよいと思います。  「手を着けて」の「着けて」は昔の書き方です。今は「手をつけて」が主流になりつつあると思います。このあとのルカ のように、聖書協会共同訳聖書にはこの種の問題も多いです。どうしても日本語の古さが目についてしまいます。. この言い方だと、人の親を悪魔呼ばわりしているようにも読めます。キリスト教徒でない方の多くはそういう受け取り方をすると思います。ここは「悪魔という父から」としなければならないでしょう。  「自分が偽り者であり」は「彼は偽り者であり」としたほうがいいと思います。関西圏には「自分」を「おまえ」の意味で用いる語法があって、かぶってしまいます。.

聖書には、「集う人々」を意味し、後の時代に「教会」を意味するようになった語があります。現代の聖書の大半はこの語に「教会」という訳語を充てているため、多くの聖句で文意が変わってしまうという問題があります。  最初の「造り上げる」は、おおかた「励ます」の意味です。文脈でパウロが指摘するとおり、異言を語る人は自分の語る言葉の意味を理解できません。つまり、自分に聖霊の奇跡が起こっていることを自覚することしかできませんので、その人の中で何かが成長するということにはなりません。一方、後半部分の「造り上げる」は「教えられて成長する」の意味です。そこでパウロは、異言よりも預言のほうがよいと結論するわけです。  仮にもパウロは、教会が建てられることや、設立されることについて述べているのではありません。「異言を語る者はその人だけを強くしますが、預言を行う者は教会の全員を強くします。」などとするなら、原文の文意を正しく示すことができます。また、コリント第一 の「誰も聞いていないのに」は「誰も聞き取れないのに」か「誰も理解できないのに」としたほうがよいでしょう。.

ここは、パウロが難解な言い方を選んだということがあるのですが、もし意味を通そうとするなら、「私が「そうだ」と説明した諸般の事柄は、「そうではない」という説明によって逐一取り消されてしまったのでしょうか」、あるいは「私は何かを主張してはすぐに撤回するということを繰り返しているのでしょうか」などとしないといけないでしょう。 説明は省きます。  さてここで、聖書の訳文の調整がどの程度まで許されるのかを示す実例を挙げたいと思います。. コメントを投稿 ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。.

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これは多義の問題であると言えば確かにそうなのですが、聖書の感覚で「この世の神ならぬ神」と言えばそれは父なる神エホバのことになると思います。そうするとこの文はエホバのことをサタン呼ばわりしているようにも読めるわけで、これは不謹慎極まりないと私は思います。  そもそも、この「この世の神ならぬ神」という訳語はどこから出てきたのでしょうか。原典は「この世のご時世に ギリシャ語コスモスとアイオーンが組になっている 」です。原本に存在しない語が使われているうえに文意も神に対して冒涜的だとなると、日本聖書協会はこの件を内部調査にかけ、結果を公表しなければならないと私は思います。だって、こんな危ないものを教会が礼拝に使うわけにはいかないでしょう。. 第三印象は、最近の聖書学の知見が反映されているという。細かいことは分からないが、これは訳文に面白い変化をもたらしているようだ。好きか嫌いかは評価はわかれるだろうがおもしろい。  たとえば、小冊子でも説明されているが、旧約では、創世記1:27は、「神のかたち」となっている。新共同訳やフランシスコ会訳では「自分にかたどって」と訳されていた。あれこれと考えが湧いてくる。  創世記と言えば出だしだが、この共同訳は「初めに神は天と地を創造された」だ。フランシスコ会訳と同じだが、「点、コンマ」がない。一気に読め、ということだろうか。新共同訳では「初めに、神は天地を創造された」だ。「天と地」ではなく、「天地」となっている。違いがあるのだろうか。  強烈な印象はやはり、神の名前だ。神は名前を持たない。だが、出エジプト記3:13で、神は名乗る。ここは、今回の訳は、「わたしはいる、という者である」。フランシスコ会訳では「わたしは『ある』ものである」だ。新共同訳では、「わたしはあるという者だ」だ。「ある」から「いる」に変わった。「いる」とはどういうことなのだろう、と考え始めたらキリが無い。. 後半を読み飛ばした場合、誤解の多い表現です。「木が良ければその実も良いものだ、木が悪ければその実も悪いものだとわきまえなさい」とすることができます。  ここでも、先に指摘した二段構えの文体が見られます。.

世界一のベストセラー「聖書」

カトリック社会学者のぼやき カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく. カリフは全イスラム世界を統一できるのか ー イスラム教概論18 学び合いの会) 3週間前 カリフと教皇の違い ー イスラム教概論17(学び合いの会) 3週間前 カリフ制とイスラム政治 ー イスラム教概論16(学び合いの会) 3週間前 スーフィズムは修行論か哲学か ー イスラム教概論15(学び合いの会) 4週間前 シーア派は異端か(その2) ー イスラム教概論13(学び合いの会) 2ヶ月前 イスラム教の正統と異端(スンナ派とシーア派の対立その1)ー イスラム教概論12(学び合いの会) 2ヶ月前 イスラム教の正統と異端(スンナ派とシーア派の対立その1)ー イスラム教概論12(学び合いの会) 2ヶ月前 イスラーム法学者とは何者か ー イスラム教概論11(学び合いの会) 2ヶ月前 スラーム法は神の掟だ ー イスラム教概論10(学び合いの会) 2ヶ月前 スラーム法は神の掟だ ー イスラム教概論10(学び合いの会) 2ヶ月前. ヨハネ福音書にはこの種の表現がたくさんあるのですが、このような訳文を見ると、これは根本的に訳し方を見直したほうがよいのではないかと思わされます。この問題については ヨハネ の項 と ヨハネ の項 と ヨハネ の項 に説明があります。.

普通は「シメオンという人がいた」とするところです。誤変換なのかと思いましたが、意図してやっているようで、ルカ など至る所に「と言う人」という表現があります。. ここは、パウロが難解な言い方を選んだということがあるのですが、もし意味を通そうとするなら、「私が「そうだ」と説明した諸般の事柄は、「そうではない」という説明によって逐一取り消されてしまったのでしょうか」、あるいは「私は何かを主張してはすぐに撤回するということを繰り返しているのでしょうか」などとしないといけないでしょう。 説明は省きます。  さてここで、聖書の訳文の調整がどの程度まで許されるのかを示す実例を挙げたいと思います。. コメント利用規約 に同意の上コメント投稿を行ってください。. ここは、幾つかの翻訳がしているように「すべての」を省いてしまうなどの工夫をしないと訳文が不自然になります。字義訳ということにこだわりすぎるからこういうことが起こってしまうのでしょう。聖書協会共同訳はそれほど字義訳ということにこだわった聖書でもないのに、バランスが悪いと思います。  「であるように……も同様です」の言い回しにも不自然さがあります。「体は一つでも多くの部分から成り、部分が多くても体は一つであるということは、キリストにおいても同様です。」とするとよいでしょう。.

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コメント利用規約 に同意の上コメント投稿を行ってください。. 協会共同訳と新共同訳はどこが違うのか(3) 「教会の外に救いなし」は今日でも通じるのか ー教 これも昔から、これだと意味が解らないと言われ続けてきたところです。聖書についての予備知識がない方は、主が主に言うとはどういうことかと理解に苦しむでしょう。最初の「主」は、神「エホバ」が「主」に変化したものです。新世界訳聖書のように神名の復元を行わない聖書の場合、ここをあえて「神は」とする方法があると思います。日本はキリスト教国ではないのですし、キリスト教徒たちの聖書に対する理解も浅いのが現状ですから、こういう配慮は必要だと思います。  ちなみに、聖書協会共同訳聖書のルカ では、この種の配慮が実践されています。複数個所で「日」を「時」と訳し替えているところです。さらに、神学上の都合により暗黙の了解となっている訳語「その日」の使用を自粛することまでしています。これは、私が マタイ の項 で指摘したことを真剣に考慮したのだと思います。聖書協会共同訳聖書の良いところは、外部からの批判に積極的に耳を傾ける姿勢が見られていることです。.

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カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

普通は「シメオンという人がいた」とするところです。誤変換なのかと思いましたが、意図してやっているようで、ルカ など至る所に「と言う人」という表現があります。. 聖書協会共同訳聖書については、「信仰」という言葉から信仰以外の意味が読み取れるという場合に「信実」という訳語を充てる方針が公表されていました。この点については 使徒 の項 にすこしだけですが説明があります。その後、日本聖書協会は方針を転換して「真実」の訳語を採用したようです。ただ「真実」と「信実」は意味が異なるという問題があります。ローマ には、この語を「真実」と訳しても構わないだろうという例があります。しかし、ほかの場所でも同じようにしているとなると、どうなんでしょうか。. ここは、パウロが難解な言い方を選んだということがあるのですが、もし意味を通そうとするなら、「私が「そうだ」と説明した諸般の事柄は、「そうではない」という説明によって逐一取り消されてしまったのでしょうか」、あるいは「私は何かを主張してはすぐに撤回するということを繰り返しているのでしょうか」などとしないといけないでしょう。 説明は省きます。  さてここで、聖書の訳文の調整がどの程度まで許されるのかを示す実例を挙げたいと思います。.

かなり不自然な位置にカンマがあります。「私たちが御前で、愛のうちに、聖にして傷のない者となるためです。」としたほうがよいでしょう。  この文には神学的な問題点もあります。「世の基が置かれる前」という表現が「天地創造の前」となっているところです。ここでの論点ではありませんので、これについては指摘のみにとどめたいと思います。. このブログの人気記事 スーフィズムは修行論か哲学か ー イスラム教概 ブログ ランダム 【注目】創造力を刺激する!マルシェルコラムを読む.

  • ルカ福音書の冒頭でこの文というのは、私としてはなかなかインパクトが強かったです。  この文には主語が二つあるように見えるという問題があります。「御言葉に仕える者となった人々が」と「多くの人が」です。問題の原因となっているのは「御言葉に仕える者となった人々が」の後にカンマが入っていることです。カンマがなければそれなりに文意が成立しますが、それでもややこしいと思います。ここは、「私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃し、御言葉に仕える者となった人々から、私たちに伝えられたとおりのことを物語にまとめようと、多くの人がすでに手をつけてまいりました。」とすればよいと思います。  「手を着けて」の「着けて」は昔の書き方です。今は「手をつけて」が主流になりつつあると思います。このあとのルカ のように、聖書協会共同訳聖書にはこの種の問題も多いです。どうしても日本語の古さが目についてしまいます。.
  • goo 最初はgoo.
  • ここは、パウロが難解な言い方を選んだということがあるのですが、もし意味を通そうとするなら、「私が「そうだ」と説明した諸般の事柄は、「そうではない」という説明によって逐一取り消されてしまったのでしょうか」、あるいは「私は何かを主張してはすぐに撤回するということを繰り返しているのでしょうか」などとしないといけないでしょう。 説明は省きます。  さてここで、聖書の訳文の調整がどの程度まで許されるのかを示す実例を挙げたいと思います。.
  • 興味深かったのは真福八端(マタイ5-7)だ。同じともいえるし、違うともいえる。たとえば、「柔和な人々」(新共同訳)は複数形だし、「柔和な人」(フランシスコ会訳)は単数形だ。これが今回の共同訳では、「へりくだった人々」となっている。聞いてわかりやすいと言えばわかりやすい表現だ。  そのほか、「嗣業」から「相続」へとか、動植物の名前とか、色々変わったようだ。また、さすが「イエズス」は出てこないが、わたしが一つ分からなかったのは、「規定の病」だ。たとえば、マタイ8:2だ。新共同訳でもフランシスコ会訳でも「皮膚病」と訳されていた部分だ。バルバロ訳ではかって「らい病人」と訳されていたところだ。英語の聖書ではleperと訳されることが多いらしく、文字通りの病名のようだ。今回の「規定」とは、どうもこの病は明白ではないので、「旧約聖書に規定されている病」という意味で「規定」という言葉を使っているように見える。わたしにはピンとこないが、聖書の翻訳にもポリティカル・コレクトネスの思想が入ってきているのであろう。この訳語がどう定着していくか、見守っていきたい。  まだ購入されていない方は「続編付き」をお求めください。あまり読む機会が無いとは言え、無ければ困ることも多い。.

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クリスチャントゥデイからのお願い

邦訳聖書には「あなたがた」という言い回しがやたらくどすぎるという問題があります。私はこれを「皆さん」などに置き換えてはどうかと常々思うのですが、そんな私としては、ここで突発的に「皆さん」が出現し、そのあと消滅してしまうというのにはかなり閉口させられます。  「今日私たちが取り調べを受けているのは」は「今日私たちが取り調べを受けているのが」、「あるならば」は「あるなら」か「あれば」、「この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは」は「この人がよくなって皆さんの前に立っているのは」、「名によるものです」は「名によるのです」でしょう。.

ここは実質的には二重否定ということになると思います。そこに仮定がついていますので難読文章です。つまり、「切り捨てることをしないことをしないことをするとすれば」という文です。「神が自然に生えてきた枝を切り捨てにしたのなら、おそらくあなたをも切り捨てにしてしまうでしょう」とすることができるでしょう。  「恐らく」は「おそらく」のほうがよいと思います。. 編集画面にログイン ブログの新規登録. 普通は「シメオンという人がいた」とするところです。誤変換なのかと思いましたが、意図してやっているようで、ルカ など至る所に「と言う人」という表現があります。.

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  • Kyoko 13.10.2010 15:37

    普通は「シメオンという人がいた」とするところです。誤変換なのかと思いましたが、意図してやっているようで、ルカ など至る所に「と言う人」という表現があります。. このブログの人気記事 スーフィズムは修行論か哲学か ー イスラム教概